宝浄寺の初代住職は大村寿顕(日統) 1933-2009.5.11.75才で死去。この人は日蓮正宗宗務院教学部長を1979-200526年間勤めている。今の二代住職・舟橋義秀(慧行院日謙)氏で応顕寺→宝浄寺に転任している。宝浄寺は19641221日・創価学会の寄進供養により建立される。本堂の板本尊の脇書は「願主法華講総講頭池田大作の名前」が入っていた。これは創価学会建立寄進の寺院は最初は創価学会の土地・建物で、板本尊願主は創価学会のトップである、総講頭池田大作氏になる。新築入仏式は創価学会の行事で日蓮正宗は招かれて出席していた。新築落慶入仏式の後に土地建物を日蓮正宗に名義変更している。 1980103日・東京目黒区妙真寺住職(正信会)山口法興氏の擯斥により日蓮正宗側についた法華講妙真寺支部講員は宝浄寺の預かり信徒となる。 妙真寺住職破門で妙真寺信者が全員、宝浄寺に移ったのではない。妙真寺法華講・檀徒が三分裂した。宗門派(法華講妙真寺支部・宝浄寺預かり)・寺院派(妙真寺・山口法興氏についた法華講員・檀徒)・離反派(妙真寺から離反して宗門にもつかなかった人)の三つである。19846月・創価学会昭和五十二年路線・第1次宗創紛争で創価学会脱会・宝浄寺檀徒になった44世帯で法華講宝浄寺支部を結成した。これも宝浄寺檀徒が全員、法華講宝浄寺支部に入ったわけではない。宝浄寺檀徒も正信会問題の混戦で三分裂・宗門についた檀徒が法華講宝浄寺支部を結成した。宝浄寺から正信会寺院に行った檀徒もいた。1990-1992年ころ、英昭彦が朝勤行会の末席に座って見ていた。大村寿顕住職の導師は週12回くらい。「なむみょうほうれんげきょう」と言っていた大村寿顕氏をはっきり目撃している。大村寿顕氏不在時は在勤僧侶は「住職は本山に行っています」と言っていた。しかし住職不在の勤行会の後、英昭彦がJR蒲田駅に行く途中、同じくJR蒲田駅へ向かう大村寿顕氏にバッタリ遭遇したことあり。大村夫人も勤行会では不在だった。当時の在勤者は坂本雄悟氏(現大坊在勤)、竹内雄慧氏、山澄信玉氏(広島開妙寺住職)・「オレは寺男をやっていた」と自称する人物がいるが、朝の勤行会に寺男はいなかった。寺男がいたら絶対に勤行会に出てくる。朝勤行会の参詣信者は23人・多い時でも56人くらいだった。ほとんどが婦人部である。大石寺67世日顕法主の代は法華講員が「大村寿顕氏は次期法主候補」と言っていた。しかし大村寿顕氏の題目の唱え方に疑問があり、大石寺法主が「なむみょうほうれんげきょう」と唱えたのでは信者が動揺してしまう。だから大村寿顕氏の法主昇格はないと予測していた。第2次宗創紛争後、マスコミ報道で「次期法主有力候補は宗務役員HG氏」(早瀬義寛・今の日如法主)と出ていた。今となってみると、マスコミ報道のほうが当たっていたことになる。19901227日・池田大作総講頭罷免・第2次宗創紛争勃発・法華講宝浄寺支部が1000世帯超える。法華講宝浄寺支部法華講員の大半が元創価学会員。1992年頃、本堂板本尊から「願主法華講総講頭池田大作」の文字消える。板本尊から「願主法華講総講頭池田大作」の文字消えた事例が多数各地の寺院で目撃されている(総一坊・総二坊等)・日蓮正宗全体でかつて創価学会寄進供養の寺院の板本尊の脇書から池田大作氏の名前を消していたと思われる。20051123日・現本堂の新築落慶法要・本堂に新しい板本尊が祀られる・板本尊の脇書は「願主常秀院日統」・旧本堂板本尊は客殿へ?? 2010721日・妙真寺第2代住職死去で宝浄寺預かり信徒・法華講妙真寺支部・講員が妙真寺に復帰している。