今回の検証のポイントはa 三時の勤行 b 機械時計伝来以前は夜明けと共に起きて日没とともに寝るのが習慣だったこと c 大石寺の一夜番の僧侶である。大石寺では昔から行われていた三時の勤行(13回の勤行)の朝の勤行が丑寅勤行だったと言い張っている。大石寺66世細井日達法主は19621015日の横浜市久遠寺本堂修復落慶法要の説法で「大聖人様の時代、徳川時代でも、みんな三時の勤行と申しまして、13回勤行をやっておったのであります。今は忙しいから、そんな事はできませんが、早朝、丑寅の勤行、というのは、十二時からやるけれども本当は、二時から三時、四時にかけてする早朝の勤行でございまして、それが第一回目でございます。それから正午のお昼に第2回、それから晩の初夜、即ち八時か九時頃ですな、それが第3回目…」(日達全集1-2-p7)と言っている。ところが、1977526日の寺族同心会での説法では

「『勤行を致し』、これは、今は丑寅の勤行をいっております。それじゃ丑寅と書いてない。どこを丑寅というかと非難するでしょう。昔は、電気もランプもなかった時代には、夜、日が暮れると寝て、朝、日が出る前に、薄明るくなた時に勤行する、これは習慣であります」(日達全集2-5-p447)と言って、昔は夜明けとともに起きて勤行していたと、夜中の丑寅の時刻に勤行をしていなかったことを、暗に認めている。同じく1971526日の寺族同心会での説法でも、大石寺66世細井日達法主は、「『勤行を致し』、ここでは丑寅勤行とは申しておりませんが、この時分の勤行というのは、必ず早朝であります。夜明けのまだ太陽が昇る前、朝になりかかった時、御経をあげるのであります。夜、日が落ちれば休み、もう太陽が出る前には起きるということは、昔からの習慣で当然であります」(日達全集2-5-p350)と言って、ここでも「夜明けのまだ太陽が昇る前、朝になりかかった時、御経をあげる」「太陽が出る前には起きるということは、昔からの習慣」と言って、上古の昔は深夜の丑寅勤行をしていなかったことを、暗に認めている。さらに1971529日の寺族同心会での説法で大石寺66世細井日達法主は、大石寺23世日啓の「留守中定」を引いて「ここで丑寅勤行の時間がはっきりしています。一夜番とは、一晩中起きており、丑寅勤行をする役。御宝蔵番は番所に詰めて御宝蔵をお守りする役。この一夜番と御宝蔵番をもって両番役と称し、本山(大石寺)においては大切な役であります。ここでは香を上げる時間表を守って、その遅速ある時は、遅番として代官仲居がその者に申しつけなさいということです。今は起きる者もたくさんおり、電気もありますから、遅れることはありませんが、昔はそうではなかったから、よく寝過ごして遅番になった人もあります」「この文書(留守中定)において、丑寅勤行が丑の下刻とはっきり出てくる」(日達全集2-5-p369-370)と言って、大石寺23世日啓の「留守中定」が、丑寅勤行の時刻、一夜番の初出であることを認めている。その後、大石寺31世日因が1745628日に書いた「冨士記」の文「今三十一代四百五十余歳の間大坊貫主一人毎朝丑寅刻に勤行なり」を引いて「すなわち大聖人滅後、大坊の貫主はまちがいなく丑寅勤行を続けてきている」(日達全集2-5-p373)と説法しているが、江戸時代後半の大石寺31世日因の言葉を引いて、「三十一代四百五十余歳の間大坊貫主一人毎朝丑寅刻に勤行なり」と言ったところで、これは何の説得力もない。日蓮滅後から丑寅勤行がつづいていた証拠にならない。