大石寺17世日精が書いた公式史伝書「家中抄」は、史実と伝説とウソデタラメが織り交ぜて書いてある。大石寺歴代法主の唯授一人血脈相承は、大石寺9世日有が偽作したものであることは動画383, 385で検証済み。しかし大石寺9世日有のころは、法主から法主への代替わりの時に血脈相承の儀式が行われた形跡はない。大石寺9世日有から14世日主の代までは「稚児貫首」の時代だったことは動画99で検証済み。その稚児貫首の歴史が都合が悪いのか、家中抄では大石寺12世日鎮、13世日院の在世、年齢を完全に偽っている。次の14世日主は京都要法寺と通用を開始したことで有名な法主だが、14世日主から15世日昌の代替わりの時にはじめて相承の儀式の文献、相承書が出てくる。相承の儀式が行われたのは、此の時が最初か。しかしその儀式も15世日昌から16世日就の代替わりで一度、断絶する。家中抄では1607年に日昌と日就が堅約したとの記述があるが相承したとは書いてない。162247日に15世日昌が死去。423日に16世日就が大石寺大坊に入るまでの間、理境坊日義が相承を預かり、日就は理境坊日義に随って相承を継いだと家中抄に書いてある。

「昌公病気の時、付嘱を定めんと欲し書状を日就に賜ふ。師匠の日賙の云く師弟合して本末相承を継ぐ。冥慮に相叶ふ者か。即日日賙領掌して返礼を賜ふ。堅約以後、猶昌公在位なり」「元和年中昌公終焉後、同四月二十三日(日就が大坊に)入院し理境坊日義に随ひ相承を継ぐ」(家中抄・富士宗学要集5p260)