宝浄寺(ほうじょうじ)とは、東京都大田区新蒲田にある日蓮正宗の寺院で、蒲田駅西口から徒歩12分くらいのところにある。正式名は仏国山宝浄寺という。

宝浄寺1


ここには、1991年の宗創戦争勃発前後ぐらいのころに、寺跡調査のために何度か行っているんですが、なぜ宝浄寺に行こうという気になったかといえば、日蓮正宗や創価学会を調査・研究していく途上において、ここの住職・大村寿顕(日統)という人が、どういう人物なのかを自分の目で確かめておきたかったため。というのは、この大村寿顕(日統)氏は、日蓮正宗大石寺67世法主・阿部日顕が現職法主・日蓮正宗管長だったころ、日蓮正宗宗務院の教学部長を務めていた人物だったからだ。

日蓮正宗の末寺寺院は、日蓮正宗の信者であるなしにかかわらず、だれでも本堂に入ることができる。1991年の宗創戦争が勃発すると、創価学会員の寺院来訪を極端に警戒する寺院僧侶や信者が、日蓮正宗信者として寺院名簿に登録されていない「見慣れない」来訪者をチェックするようにはなったようだが、だれでも来訪できることに変わりはない。宗創戦争が勃発する以前においては、日蓮正宗側は、寺院への来訪者をチェックするなど、全くやっていなかった。

 

私が大村寿顕(日統)氏を確かめようと宝浄寺を訪れたのは、朝7時からの勤行の時間である。

大村日統2


宝浄寺では午前6時半すぎに開門し、7時から本堂で住職・僧侶と数人の参詣信者が勤行をする。

ところが、住職・大村寿顕(日統)氏は、宗務院教学部長を務めているため、総本山大石寺に行っていることが多いためか、なかなか朝の勤行に出仕しない。そういうわけで大村寿顕(日統)氏という人を確認するためだけで、私は何度も何度も宝浄寺へ行かねばならなかった。

ある日、やっと勤行に大村寿顕(日統)氏が出仕してきて、その勤行の様子を黙って見ていたのですが、率直に言って、いい印象は持ちませんでした。

 

勤行開始の時刻になると、まず、そそくさと本堂奥の庫裡との出入り口の戸を開けて、一人の所化僧が飛び出してきて副導師席に座って、大きな鈴をガンガン鳴らしはじめる。

すると、大村寿顕(日統)氏を先頭にして後に所化僧が56人、ゾロゾロと出仕してくる。この住職の出仕を告げる鈴は「出仕鈴」と呼ぶらしいのだが、住職が庫裏から出仕して導師席に着席するまで、参詣していた信者は、合掌して深々と平身低頭…。

私はこの勤行の光景を見て、その時、即座に「ずいぶん偉そうな人物だな」と、ものすごい嫌悪感を感じました。まるでこれは、寺の信者たちは、住職を尊敬しろと言わんばかりである。信者にこんなことをさせて、大村寿顕(日統)氏は悦に浸っているんだろうか??と思うと、なんとなく、この大村寿顕(日統)氏という人の人格を疑ってしまいました。

 

その後は、朗々と読経がつづくのですが、アレと思ったことがひとつありました。

それは日蓮正宗や創価学会では、勤行の引き題目を唱える時は、「南無妙法蓮華経」の頭の部分の「なーむー」で一回息を切って、その後に「みょーほーれーんげー…」とつづくのですが、ここの住職・大村寿顕(日統)氏の場合は、「なーむー」の後、息を切らずに、つづけて「みょーほー…」と唱える。

だから、大村寿顕(日統)氏の引き題目は、日蓮正宗の「なんみょうほうれんげきょう」ではなく、日蓮宗の「なむみょうほうれんげきょう」に聞こえてしまうのだから、滑稽である。私も正直なところ「アレ、何か日蓮宗っぽいな」と思ってしまった。

日蓮正宗宗務院教学部長の要職にある人物が、何と日蓮宗っぽい題目を唱えているというのは、特筆すべきことだと思いました。

 

 

その後、何度も大村寿顕氏を見ようと宝浄寺の勤行に行きましたが、何度行っても、大村寿顕氏は、引き題目の「なーむー」の後、息を切らずに、つづけて「みょーほーれーんげきょー」と唱えていました。まさに日蓮宗の題目「なむみょうほうれんげきょう」です。

面白いですね。

その後、この大村寿顕氏に入り浸りになっていた日蓮正宗の信者が、私に「次の猊下(法主)は大村寿顕さんだ」と言っていたのを憶えています。しかし実際に阿部日顕の次の法主に登座したのは、大村寿顕(日統)氏ではなく、宗務院庶務部長、総監を務めた早瀬日如。

大村寿顕氏が次期法主の有力候補になりながら、法主になれなかった原因が、この日蓮宗の題目っぽい「なむみょうほうれんげきょう」の引き題目だったとしたら、まさに笑い話である。