1989~1993年の宗創戦争勃発前後ぐらいのころ、宝浄寺に寺跡調査のために行っていた時、私のことをてっきり信者と勘違いした宝浄寺信者から声をかけられたことがあった。
その人の名は大下順也氏(仮名)。年齢は30代前半くらい。その当時は私も年齢が20代後半から30代前半のころだったので、同じ年代の信者かもしれないと勘違いしたようであった。ところがその人は、私にいろいろ興味深い話しをいろいろしてくれたのである。
大下順也氏(仮名)は、宝浄寺信者の法華講員であったが、所属は「法華講妙真寺支部」。
あの当時、宝浄寺には「法華講宝浄寺支部」と「法華講妙真寺支部」の二つの法華講があった。「法華講宝浄寺支部」というのは、1970年代後半に起こった創価学会の「昭和五十二年路線問題」によって創価学会から脱会して宝浄寺信者になった人たちが中心になって結成された法華講。こういう法華講は、どこの日蓮正宗寺院でもよくあるパターンの講中である。
もうひとつの「法華講妙真寺支部」は、創価学会の「昭和五十二年路線問題」につづく、正信覚醒運動の活動家僧侶(のちの正信会)であった妙真寺住職・山口法興氏が日蓮正宗大石寺67世阿部日顕法主から住職罷免・破門になっても妙真寺から退去せず、妙真寺に居すわりつづけたため、妙真寺への参詣を大石寺・宗務院から禁止されたため、旧来から妙真寺にあった法華講である「法華講妙真寺支部」に所属する信者が、宝浄寺への移籍を命じられて、宝浄寺に講中丸ごと、移籍してきた法華講支部である。
ところがその大下順也氏(仮名)の話しによると、正信会・山口法興氏破門事件の時、「法華講妙真寺支部」の信者は全員、スムーズに宝浄寺に移籍したわけではなく、講中そのものが三分裂してしまったのだという。
ひとつは、阿部日顕法主・宗務院の命令のままに宝浄寺へ移籍したグループ。
ひとつは、山口法興氏を支持して妙真寺に残ったグループ。いわゆる今の正信会信者。
ひとつは、一連の事件や混乱に嫌気がさして、日蓮正宗の信仰そのものをやめてしまったグループの、三つということであった。
山口法興氏ら正信会(正信覚醒運動)の指導的立場にあった住職5人が、1980(昭和55)年に、阿部日顕法主から住職罷免・破門に処せられた時、テレビの報道番組でも放映され、大きな話題になった。それについて、日蓮正宗の内部でかなり大きな混乱があったことは私も知っていたが、妙真寺の講中が三分裂してしまうほどの大混乱があったことは、この時、はじめて知った。
阿部日顕法主の命令で宝浄寺へ移籍した「法華講妙真寺支部」は、「法華講宝浄寺支部」と同じく宝浄寺住職・大村寿顕(日統)氏の指導下にいた。
もちろん、一家ともども宝浄寺へ移籍した人もたくさんいたらしいのですが、中には一家で山口法興支持派と宝浄寺移籍派に分裂してしまったケースもあったという。
こういった一家分裂劇というのは、創価学会の「昭和五十二年路線問題」をめぐる混乱で、一家が創価学会派と正信会派に分裂してしまったケースが多数あったと聞く。これも日蓮正宗の分裂劇が産んだ悲劇の一つだと思いました。
こういう家族分裂・家庭分裂は、日蓮正宗・創価学会・正信会の紛争だけにとどまらず、1991年以来の宗創戦争においても、家族が日蓮正宗法華講と創価学会に分裂してしまうということが全国各地で起こっている。
しかしこういう一家分裂の悲劇を生んでおきながら、日蓮正宗も創価学会も「一家和楽」などということを平気で説いているという、この言行不一致ぶり。日蓮正宗や創価学会が言うように「一家和楽」の信仰生活が本来の姿なのであれば、なぜ度重なる日蓮正宗の内紛・分裂劇で、一家を分裂させてしまっているのか。
今でも日蓮正宗、創価学会、正信会、顕正会といったところが、お互いがお互いを非難し、相手をそれこそ抹殺せんとばかりに非難・中傷合戦を繰り広げて、それの巻き添えで分裂していく家族。
こんな家族分裂の悲劇を次々と産ましめている日蓮正宗、創価学会、正信会なる宗教は、まともな宗教ではない証拠であり、家庭分裂の連鎖を生ましめている根源を絶ちきらねばならない。
コメント