■検証149・日蓮・日興~大石寺8世日影の代に「戒壇の大本尊」は存在していなかった14(大石寺の状況)

 

□日興在世当時の大石寺には「戒壇の大本尊」なる板本尊を格蔵する堂宇がなかった

 

日興が開創した大石寺は、日興・日目の時代には、本尊堂もなければ御影堂もなかった。あえて日興は、自分が住んでいた坊舎の一角を持仏堂としていたようだが、本尊堂や御影堂は造営しなかった。又、日蓮正宗側では、やたらと「『戒壇の大本尊』は広宣流布の日まで固く秘蔵する秘仏である」などと言うが、日興・日目の時代から大石寺8世日影の代に至るまで、「戒壇の大本尊」なる板本尊を祀る本尊堂どころか、「戒壇の大本尊」なる板本尊を固く秘蔵するなどという目的のための土蔵や蔵といったものも全くなかった。大石寺59世堀日亨は著書「富士日興上人詳伝」で

「本図によるに本尊堂正面にあり、御影堂西面にありしこと、開山上人より日有上人代のごとし」

(『富士日興上人詳伝()(p22)

本尊堂正面御影堂西面開山上人より日有上人代の如し
 

と、戦国時代の大石寺法主であった大石寺14世日主の代以降に造られた大石寺境内の図を根拠に、あたかも開祖日興から大石寺9世日有の時代まで、本尊堂や御影堂が、さも大石寺にあったかの如く書いているが、これは全く歴史的事実に反している。「戒壇の大本尊」なる板本尊が、開祖・日興~大石寺8世日影の代までの間、大石寺に存在しなかったことを隠蔽し、ごまかそうとする大ウソに他ならない。これに関連してのことだが、日蓮正宗では、

「大石寺という名前は、地名をとった仮の名前で、正式な寺号ではない」

「いつの日か広宣流布が達成された日には、大石寺は本門寺と改名する」

「本門寺戒壇を建立する日までの仮の弘通所という意味で正式な寺号を付けなかった」

ということを認めている。そういう「仮の寺」としての建物に、総重量が200キロを越えようという巨大な板本尊を祀ることはできない。かりそめにも大石寺には、開祖・日興~大石寺8世日影の代まで、「戒壇の大本尊」なる板本尊を格蔵する本尊堂、御影堂、土蔵、宝蔵といったものが存在しなかったのに、日興在世当時の大石寺は一体、どこに「戒壇の大本尊」なる板本尊を秘蔵していたというのか。「戒壇の大本尊」なる板本尊を秘蔵するための土蔵造りの「御宝蔵」を創建したのは、大石寺9世日有である。こういう大石寺の状況といったことなども、大石寺9世日有より以前、日蓮・日興~大石寺8世日影の代までの大石寺には「戒壇の大本尊」なる板本尊が存在していなかった証左に他ならないではないか。

御宝蔵3
 

(大石寺宝蔵)

戒壇大本尊1大正4年由井本1
 

(大石寺「戒壇の大本尊」)

2祖日興1
 

(日興)