■検証158・「戒壇の大本尊」が本当に身延山の日蓮の大坊に存在していたならば、弟子・信者の誰も知らないはずがない3
□身延山大坊落成式には京都や鎌倉の繁華街のように賑わった身延山久遠寺の大坊
日蓮の説法の折りには、百人を超える参詣者で賑わった身延山の日蓮の草庵は、1277(建治3)年に一度、修理を加えているものの、常時四十人から百人近い日蓮の門弟たちが修行研鑽する道場としては、あまりにも手狭であっただろう。日蓮は、60歳の1281(弘安4)年10月の半ば、身延山のこれまでの草庵にかわって、新たに十軒四面の大坊の建設工事に着手した。大坊工事開始から落成までのことを、1281(弘安4)年11月25日に身延山の地頭・波木井実長に宛てた手紙「地引御書」(平成新編御書全集p1577・堀日亨編纂・御書全集p1375)に書き残している。
それによると10月12日・13日に着工して11月1日には小坊と馬屋が完成し、11月8日には大坊の「柱だて」を、11月9日・10日には大坊の屋根の葺き終え、11月23日・24日の両日・落成式を行っている。完成した身延山の大坊は、日蓮が「地引御書」に
「坊は十間四面に、また庇さしてつくりあげ」(平成新編御書全集p1577・堀日亨編纂・御書全集p1375)
と書いているように、広さが十間四面あり、二重庇(また庇)の造りになっている、以前の草庵よりも、はるかに立派なものだった。日蓮は、この大坊の完成をたいそう喜んでおり、前出の「地引御書」には
「坊は鎌倉にては一千貫にても大事とこそ申し候へ」-----鎌倉においては一千貫の大金をかけても、このような立派な大坊はできないであろう---
と記しており、さらにこの身延山大坊落成式における参詣者の賑わいを
「二十三日・四日は又、空晴れて寒からず。人の参る事、洛中、かまくらの町の申酉のごとし」-----11月23日と24日の大坊落成式は、空は晴れて、気温も寒くはなかった。身延山にはたんさんの人たちが参詣に訪れ、まるで京都や鎌倉の繁華街のようであった-----
と書いて喜んでいる。
(大石寺版「御書全集」に載っている「地引御書」)
□「地引御書」に「戒壇の大本尊」遷座の記載がないのは「戒壇の大本尊」が身延山中に存在していなかった証拠だ!
もしこのときに、本当に身延山中に「戒壇の大本尊」なる板本尊が存在していたとすれば、大坊の工事に携わった信者や、落成式に参詣に来た信者の目につかないはずがない。 また日蓮の草庵を取り壊して大坊が完成したとなれば、当然のことながら、草庵から新築の大坊に「戒壇の大本尊」を祀る場所を移すという「遷座式」も行われたはずだ。しかもあの巨大な板本尊は一人や二人では持ち運びが絶対にできない。正本堂遷座式や奉安堂遷座式の写真を見ればわかるが、8~10人位の僧侶が「戒壇の大本尊」を台座に乗せて担いで運んでいる。そうすれば、身延山の日蓮のもとで修行研鑽していた僧侶たちや信者が総出で遷座式を行わなければならず、日蓮の弟子・僧侶や信者たちが、その「戒壇の大本尊」なる板本尊の存在を誰も知らないはずが絶対にない。
しかも、日蓮自身が、大坊の工事にあたって「地引御書」には、「戒壇の大本尊」のことについて一言も書いていないではないか。もしも自らが出世の本懐とする、末代万年まで大切に保管しなければならない巨大な板本尊が身延山中に存在していたならば、大坊落成式の様子を書き記した「地引御書」に、「戒壇の大本尊」遷座のことを一言も書かないはずがない。 どうだろうか。これらの事実は、そもそも身延山の日蓮の大坊に、「戒壇の大本尊」なる板本尊が存在していなかったという、何よりの証拠ではないか。
(「正本堂」への戒壇の大本尊遷座・昭和47年10月8日付け聖教新聞より)
(正本堂から奉安殿への戒壇の大本尊遷座・平成10年5月号「大日蓮」)
(奉安殿から奉安堂への戒壇の大本尊遷座・平成14年12月号「大日蓮」)
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