■検証163・「願主弥四郎国重」の説が法主によってバラバラなのは「本門戒壇の大御本尊」が後世の偽作である証拠だ2

 

□日蓮正宗として公式に特定できない「本門戒壇の願主」弥四郎国重

 

日蓮正宗の正式文献の中で、この本門戒壇の願主弥四郎国重の人物伝に触れたのは、日蓮正宗大石寺17世法主日精である。17世日精は自らの著書・家中抄の中で

「地頭は南部六郎光行の次男実長なり、その嫡子弥四郎国重と申す。是れ即本門戒壇の願主なり」(堀日亨編纂『富士宗学要集第5巻』宗史部より)

と言っている。すなわち17世日精は「弥四郎国重」は、身延山の地頭・波木井実長の長男であると言っているのである。波木井実長が日蓮一門の中での大檀那であることは、日蓮の事跡を少しでも学んだことのある人であれば、知らぬ者はいない。

 

この波木井実長は、弘安二年十月には、まだまだ健在であった。17世日精は、この波木井実長をさしおいて、長男の「弥四郎国重」を「本門戒壇の願主」に仕立て上げているが、この「弥四郎国重」なる人物は、波木井実長の実子にはおらず、また日蓮の御書にも、日興の「弟子分帳」や消息文などの、どこにも見当たらない。

そんな人物は存在していないのである。つまり17世日精のでっち上げた空想の長男なのである。

それゆえに、日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨は

「弥四郎国重の事、依拠を知らず」(『富士宗学要集』5p215

と言っている。すなわち日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、17世法主日精の説を否定して

「弥四郎国重という人物は、どこの誰だかわからない」

と言っているのである。これだけで二人の大石寺法主が全く正反対のことを言っているということに気がつくはずだ。これ自体が特筆すべきことだが、これだけでも、「弥四郎国重」という人物は、日蓮一門の中に存在していない、ということが明らかになる。

 

ところが他宗派から弥四郎国重の事跡について鋭く追及された日蓮正宗大石寺66世法主細井日達は、今度は著書「悪書『板本尊偽作論』を粉砕す」の中で

「其の対告衆弥四郎国重殿を熱原に求めれば、当時の信徒中、弥四郎の名は幾人かあったことは記録によって明らかであるが、最も此の場合、該当せられるのは、神四郎兄弟であって、むしろ神四郎が弥四郎であったと断定するのが至当である」 (p19)

などと、これまた奇妙なことを何の証拠も示さずに述べているのである。

66世日達・池田大作1


すなわち、日蓮正宗大石寺66世法主細井日達は「弥四郎国重」は、熱原の法難の所謂『三烈士』(神四郎・弥五郎・弥六郎という熱原農民の三兄弟)の一人、神四郎のことであると言い出したのである。 さらに細井日達は同書の中で

「大聖人は『熱原の法難』の時、百姓たちの不退転の姿に『御感あって』本門戒壇の大御本尊を建立した」

などと言っているが、「熱原の法難」で「農民たちの不退転の姿」が日興から日蓮に報告されたのは、日蓮が執筆した御書「聖人等御返事」によれば、弘安二年十月十七日のことである。この五日前の「本門戒壇の大御本尊」を建立したとする弘安二年十月十二日には、日蓮はまだ「御感あって」どころではなかった。 このように細井日達のいう神四郎説には、弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊の願主となる時間的な条件が成立しないし、なにをもってしても神四郎と「弥四郎国重」という異名を結びつける証拠が、どこにもないのである。

 

 したがって細井日達の神四郎説も、全くの詭弁といえる。このように、「弥四郎国重」の人物伝が、大石寺の法主によってバラバラなのである。彼らが深く信奉する「本門戒壇の大御本尊」の願主の人物伝が、これほどまでにバラバラで特定できないなどということが、考えられるだろうか。これ自体が、大きな矛盾である。

つまり「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が本当に日蓮が造立した板本尊ならば、「本門戒壇の願主・弥四郎国重」の人物説が、法主によって見解がバラバラになるなどということが起きるはずがないではないか。