■検証164・「願主弥四郎国重」の説が法主によってバラバラなのは「本門戒壇の大御本尊」が後世の偽作である証拠だ3

 

□弥四郎国重・架空人物説は日蓮一門に弥四郎国重という人物はいなかった証拠

 

確実に言えることは、日蓮一門の中に「弥四郎国重」という人物は、存在していなかったのである。そんな存在していなかった人物が願主になっている本尊とは、一体、いかなるものであろうか。

実在していない人物が「願主」になっているというのは、この「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊がまさに後世の偽作であることの馬脚が現れているということに他ならない。

 

ところが日蓮正宗としても、実在していない人物が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の「願主」になっているという事実は、まことに不都合であるということなのだろう。

「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊がまさに後世の偽作であることの馬脚が現れている、実在していない人物・弥四郎国重が「本門戒壇の願主」になっていることを、言い繕うために日蓮正宗が苦肉の策として発明したものが「弥四郎国重・架空の人物説」なるものである。

日蓮正宗の僧俗、特に末寺住職の中に、この「弥四郎国重」について、公然と「架空の人物」説を唱える者がいる。つまり彼らが曰く

「本仏・日蓮大聖人さまは、最初から架空の人物を願主にして、本門戒壇の大御本尊を建立なされた」

などというのである。この「弥四郎国重・架空の人物説」というのは、近年になってさかんに唱えられているようだが、これを日蓮正宗で初期に言い出した一人が、創価学会二代会長・戸田城聖氏なのである。(創価学会発行『戸田城聖全集』より)

戸田城聖2

 

 しかしこの「弥四郎国重・架空の人物説」も全く矛盾しているのである。

もしこの「弥四郎国重・架空の人物説」が本当なら、日蓮の御書か消息文か、もしくは伝説か、何らかの形で「架空の人物説」が文献に伝わっているはずであるが、そういうものは日蓮正宗の過去の正式文献の中には全くない。

また「架空の人物説」が真実なら、日蓮正宗大石寺17世法主日精が「波木井実長の長男説」など唱えるわけがないし、59世法主堀日亨が「弥四郎国重はどこの誰だかわからない」などと言うはずがない。又66世法主細井日達が「神四郎説」を唱えるはずがないではないか。

 したがってこの「弥四郎国重・架空の人物説」も、口八丁手八丁の強者・戸田城聖氏の編み出したハッタリであることがわかる。こういうバカげた架空人物説をそのまま、日蓮正宗の末寺住職がそのまま踏襲して信者に説法しているというから、いささか驚いてしまう。

 

 

 それはともかくとして、「弥四郎国重」という人物は、日蓮一門には存在していなかったのである。日蓮が実際に存在していなかった人物を願主にして「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を建立することなど、あり得ないことだ。したがって、「願主弥四郎国重」となっていること自体が、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世、偽作された証拠のひとつである、と言える。

日蓮正宗の信者は、こういう話しの筋道をよくよく冷静に考えてみられたらどうだろうか。

日蓮正宗の教義、「本門戒壇の大御本尊」や法主から法主への相承などといったものは、このように矛盾だらけなのである。冷静になってよく考えてみれば、気がつくことばかりなのだ。