■検証172・日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない3

 

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(日蓮正宗信者の妄説)

日興上人は本門弘通の大導師であり、身延山久遠寺の別当であったから、身延離山のときに『本門戒壇の大御本尊』『日蓮真骨』『御肉牙』『最初仏』などのすべての重宝を身延山久遠寺から持ち出している。何も持ち出していないなどというのは有りえない。

日亨上人がそんなことを仰せられるはずがない。堀日亨上人が著書「富士日興上人詳伝」の中で「常住物は何一つ持ち出していない」と仰せられているが、これに遺骨や戒壇の大御本尊は含まれないことを前文でことわっている。

したがって、日亨上人が「身延離山のときに、日興上人が身延山久遠寺から何も持ち出していない」と断言しているかのように「富士日興上人詳伝」の文を引用するのは、切り文である。

(日蓮正宗の信者が日蓮正宗系ウエブサイト・掲示板に書いた反論)

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□身延離山の荷物に「戒壇の大本尊」があったか研究の余地が存ずると言う堀日亨

 

私が「日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が『日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない』と断言している」と日記等で書いたら、上記のような質問とも反論ともつかぬものが日蓮正宗の信者が某サイトの掲示板に反論を書いているとの通報が私の元に届いた。

結論から言うと、堀日亨の著書「富士日興上人詳伝」280281ページの文章からの私の引用は「切り文」ではない。

59世日亨2

 

「富士日興上人詳伝」()の該当する箇所は、日興の身延離山の道程の研究における正史料として、日蓮正宗大石寺17世法主日精の著書「富士門家中見聞」(家中抄)を挙げ、堀日亨が、この「家中抄」の文について、解説をしている箇所である。その「家中抄」には

「板御本尊・生御影・其の外御書物御骨等まで取り具して離山し給ふ」(「富士日興上人詳伝・上」p277)

と書いてあるのだが、堀日亨はこの文について

「御荷物の中に『生御影』『御骨』はかならず御奉持であるべきであるが、『板本尊』にいたっては研究の余地が存ずる」(「富士日興上人詳伝・上」p280)

と言っており、『板本尊』(大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊のこと)については、「研究の余地が存ずる」として、何と身延離山の日興の荷物の中に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が含まれていないことを暗に示唆している。

よく考えていただきたいのだが、日蓮正宗大石寺法主を経験して、「唯授一人の血脈相承」なるものを受け継いでいるとされる立場にある堀日亨が、身延離山の日興の荷物の中に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が含まれているのか、いないのかについて、「研究の余地が存ずる」と言っている言葉の意味は重い。