日蓮正宗が宗祖と崇める日蓮も、鎌倉時代に、「南無妙法蓮華経」と唱えれば貴賤道俗の差別なく成仏できると説いた。

この「南無妙法蓮華経と唱える」という修行法も、南無阿弥陀仏と同様にだれでも簡単にできる修行法であるため、「南無妙法蓮華経と唱えれば、一切の人が成仏できる」という日蓮の教えが、一般庶民の間に急激に広まったわけである。特に鎌倉時代から室町時代にかけて日朗門流、日朗の弟子の日像門流、さらに日像門流から別れた日隆門流が急激に各地に弘まっている。

 

日蓮宗で有名な行事といえば、毎年101213日にかけて行われるお会式があまりにも有名である。全国各地の日蓮宗寺院では、お会式が行われるが、中でも身延山久遠寺や池上本門寺のお会式は、多くの参詣者を集める巨大な儀式として地域社会に定着している。池上本門寺のお会式は、老若男女が万灯練り供養に参加し、約30万人の参詣があるほどの巨大行事になっている。この30万人の参詣というのは、池上本門寺が参詣目標を掲げて組織的動員を行っているわけでもなく、お会式という行事が地域社会に完全に定着していることによる、自発的な参詣である。

お会式の行事だけで30万人もの人が池上本門寺に参詣するわけだから、池上駅から池上本門寺周辺は、歩行者天国等の交通規制が敷かれ、本門寺通り等には、テキ屋の賑々しい出店が建ち並ぶ。

しかも池上徳持会館から池上本門寺まで練り歩く「万灯練り供養」は、参詣の人でぎっしり埋まった池上通り、本門寺参道を深夜遅くまで行われる。こういう巨大行事が代々受け継がれて、毎年恒例の行事として行われているわけである。

御会式37万灯池上駅前


池上本門寺の周囲はぎっしり住宅やマンションが建ち並ぶ住宅街・商店街になっているのですが、深夜までこういう巨大行事が行われても、誰も文句を言わない。この地域では、この巨大行事が、毎年恒例の行事として、定着しているわけである。そういう意味では、この日蓮宗の信仰も、地域文化として深く根付いていると言うべきであろう。

 

片や日蓮正宗はどうかというと、法主が先頭になって強引・無理な折伏目標・登山目標を掲げ、組織的な動員をかけて大石寺登山を行う。2002年の日蓮立宗750年の時は、無理な30万人総登山の目標を掲げ、いよいよ達成不可能になってきたと見るや、再び組織的大動員をかけて、一人の信者を、二回、三回、四回と登山せしめて、30万人の目標を強引な手法で達成せしめたことは、あまりにも有名である。

しかも日々の修行は、朝夕にむずかしい読経を五回三回繰り返してやり、さらに「南無妙法蓮華経」を繰り返し唱える唱題を、それこそ11時間、2時間行うという修行を強要させている。

こんなむずかしい読経・勤行を信者が毎日欠かさず行っているとは、到底信じがたいものがある。

この勤行という修行だけで、信者にとっては大変な負担になっているはずだ。

私も不審に思ったので、何人かの男性信者に聞いてみたことがあるのだが、信者が言うには、勤行はよく休むという。特に朝はよく休むことが多いという。それが実際のところなんでしょうね。

その信者さんたちは、私に率直に語ってくれたのだが、しかし日蓮正宗の信者も創価学会の信者も、内輪では欠かさず勤行をしていますという顔をしているようだった。所詮、日蓮正宗にしても創価学会にしても、ウソをつきつづけていかないと信仰生活そのものが維持できないということのようである。

こんなことをやっている宗教が、万人が普遍的に信仰する、大衆の宗教と言えるだろうか。こう言うと、勉強会をやっているだの、座談会をやっているだのと言うのだろうが、逆に言うと、日蓮正宗や創価学会という宗教は、勤行や登山、参詣といった宗教活動そのものが、大衆文化として定着せず、勉強会や座談会と言った組織活動による人間関係や、仏罰論や無間地獄論といった教義的な脅迫・威迫によって成り立っているということができよう。

 

私は、日蓮正宗という宗教は、キリスト教や日蓮宗などの既成仏教のように、大衆文化として、大衆の生活の中に根付く宗教ではないと考える。