1985(昭和60)45日午後755分ころ、大石寺の「霊宝虫払い大法会」の前日、大石寺五之坊に「散弾銃」らしきものが打ち込まれ、五之坊の窓ガラス1枚に穴があいたという事件が発生。静岡県警が機動隊を動員して大石寺警備に当たるという、周囲が緊張する事件があった。

大石寺銃撃事件1

 

このように書くと、今の大石寺の境内を連想してしまいがちだが、当時の情勢は、今と全く違うので、少し解説をしておきたい。

まず「大石寺五之坊」という建物だが、これはかつて大石寺の総門と三門の間に建っていた同型の五棟の宿坊があり、それぞれ一之坊、二之坊、三之坊、四之坊、五之坊と名付けられていた。

つまり今の総一坊、総二坊が建っている場所のこと。総一坊、総二坊が建てられる以前、ここには一之坊、二之坊、三之坊、四之坊、五之坊という五棟の鉄筋コンクリート三階建ての宿坊が建っていた。五之坊というのは、その中のひとつである。

この五棟の総坊は、正本堂建立慶祝六百万総登山の一環として、当時の法華講総講頭・池田大作氏の寄進により建てられたもの。

これが、1990年の大石寺開創七百年記念事業として、全て取り壊され、総一坊、総二坊に建て替えられたのである。

 

二番目に、1985(昭和60)年といえば、もちろん1991年の宗創戦争開戦以前の「宗創和合路線時代」であり、日蓮正宗信者のトップである法華講総講頭は、池田大作。

大講頭は、秋谷栄之助、森田一哉、和泉覚、辻武寿、小泉隆の創価学会幹部と、法華講連合会委員長の阿部唯七郎。

宗創和合時代は、2月を除く月は、毎月2日から25日くらいまで、毎日、約1万人規模の創価学会員の大石寺への団体登山会と個人登山が行われていた。今の総一坊バスターミナルには、連日、満員の創価学会員を乗せた観光バスが賑々しく発着していたのである。

 

三番目に、あの当時の大石寺周辺には、右翼団体の街宣車をはじめ、日蓮正宗から破門された顕正会や正信会の街宣車が連日押しかけ、三門前や外周道路を低速で運転して、大石寺批判、創価学会批判、池田大作批判をがなり立てていた。

さらにその他に、正信会が公式に企画した「大石寺抗議登山会」という名目の抗議行動があり、こういう時は、大勢の正信会寺院住職・僧侶と正信会寺院所属の信者が大挙して大石寺周辺に押しかけ、デモ行進や野外集会、正本堂遙拝などを行っていた。

こういったようなことがあり、宗創和合時代というのは、大石寺周辺はかなり喧噪、騒然としており、緊張していた雰囲気があった。

今でも、大石寺奉安堂周辺には

「ここは大石寺の境内地であり礼拝所前です。この付近で、スピーカー等により騒音を発することは、礼拝の妨害となり、違法行為となりますので、固くお断りします。

大石寺」

と書かれた立て看板が立っているが、これは騒然としていた宗創和合時代に建てられたものである。

 大石寺・街宣禁止1

さて、1985(昭和60)年当時はどうだったのかというと、右翼団体「太勢会」の街宣車が連日、大石寺周辺に押しかけ、池田大作批判を大音量でがなり立てていたのである。

こういう当時の情勢を踏まえた上で、この記事を読んでいただきたい。