■検証5・日有の時代に日蓮正宗の僧侶や信者が激増して大石寺が復興繁栄したという歴史的事実は存在しない3

 

□大石寺9世日有以降も人材不足の現象に歯止めがかからなかった日蓮正宗大石寺

 

日蓮正宗大石寺では大石寺二祖日興・三祖日目の死後、第4世法主日道と、新六僧の一人・日郷との間に繰り広げられた大石寺蓮蔵坊の跡目争いの戦争が70年以上にもわたって続いたことから、大石寺は疲弊と極貧の極みに陥ってしまった。この宗教戦争によって、大石寺は次第に人材に窮する状態になり、大石寺4世日道から5世日行・6世日時・7世日阿・8世日影と時代が下り、ついに弱冠17歳の大石寺9世日有が大石寺一門の法主に登座するに至る。

これから大石寺9世日有以降の法主は、いわゆる稚児貫首(ちごかんず)と言われる、若年・幼少の僧侶が大石寺一門の法主になっていく時代に入る。大石寺12世日鎮は弱冠13歳で、大石寺13世日院は弱冠9歳で、大石寺14世は弱冠18歳で大石寺一門の法主の座に登っている。

この歴史的事実は、大石寺一門の僧侶の中には、壮年適齢期で法主に登るべき人材が極端に不足していたということを物語るものであることに他ならない。もし仮に、法主になるべく壮年適齢期の僧侶がいたとするならば、こんなに若年・幼少の僧侶が法主の座に登るはずがない。

さらにそれ以降も、大石寺一門の人材不足の流れに歯止めがかからず、大石寺15世日昌から大石寺23世日啓までの9人の法主は、大石寺と同じ富士門流の本山寺院である京都・要法寺出身で、長じて大石寺に登った僧侶である。

大石寺出身で壮年適齢期の僧侶が法主になったのは、江戸時代中期の1692(元禄5)年に42歳で法主になった大石寺24世日永であった。つまり1419(応永26)年の大石寺8世日影の死去から1692(元禄5)年の大石寺24世日永の登座するまでの約270年もの間は、大石寺が最も人材難の時代だったのである。

もし本当に、大石寺9世日有が日本各地を巡教して教線を拡大し、大石寺の信者が増加して大石寺が復興繁栄したのであれば、こんなに長期の間、大石寺が人材不足の状態から抜け出せないはずがない。日蓮正宗の信者が全国各地に増加していれば、それらの信者の家庭から出家して僧侶になる者が現れ、大石寺をはじめが末寺が僧侶・信者の人材で潤うはずだからである。

それは日蓮正宗の歴史を具に検証していけばわかる。

たとえば1950年代から1990年代における創価学会の折伏で日蓮正宗の信者が増加した時期においては、日蓮正宗法華講や創価学会の信者の中から出家得度して日蓮正宗の僧侶になる者が多く現れ、そして長じて全国各地の日蓮正宗の末寺寺院の住職になっていくという流れができあがっていっていた。

 

 

□大石寺9世日有の代に教線拡大があれば270年も大石寺が人材難になるはずがない

 

これは何も昭和の時代だけに限らない。江戸時代においても、同じく「中興の祖」と言われている大石寺26世日寛の時代以降、日蓮正宗大石寺一門の中では、信者から僧侶になり、そして住職になり、法主になる、という流れができあがっていっていた。

大石寺は、江戸時代の中期以降、金沢藩内に多くの信者が生まれたが、加賀藩内には大石寺の末寺がなかったため大石寺の信仰は、二百年以上も禁制になり厳しい弾圧を受けた歴史があった。その厳しい禁制の中で、大石寺の信者は地下に潜って信仰を保ち続け、その金沢信徒の中から大石寺の僧侶として出家し、大石寺法主に登座した人物が複数いる。また大石寺門流の住職・僧侶が増えると、その住職の子弟が長じて出家得度し大石寺の僧侶になる者も現れていった。つまり信者が増加するにつれて、僧侶になる者も必然的に多くなるという現象が現れていった。

したがって全国各地に大石寺の信者が増加していけば、必然的にそこから出家して僧侶になる者が出てくるのであり、江戸時代の宗門改で布教禁止・新寺建立禁止だった時代を除けば、大石寺の末寺寺院が建立されていくということが、大石寺の歴史を見れば明らかである。

したがって、歴史的事実を具に検証していくと、日有の時代に、大石寺一門の信者がおおきく増加したという事実は、認められないのである。否、むしろ信者が増加するどころか、日蓮正宗大石寺における人材難・人材窮乏の流れに歯止めがかからなかったのである。

しかしそれにも関わらず、大石寺9世日有は「宝蔵」「客殿」といった大石寺の堂宇・伽藍を建立し、奥州から京都、越後などの日本各地・諸国へ長期間にわたり巡教し、黒漆塗りに金箔加工を施した板本尊を五体も造立するなど、すばぬけて莫大な経済力を持っていたことがわかる。

大石寺9世日有が、新たに建立した日蓮正宗の寺院は、日蓮正宗大石寺からほど近い甲斐国(山梨県)と駿河国(静岡県)の三ケ寺だけ。しかもこれらの寺院が建立された年代を見ると、1466年以降のこと。つまり京都天奏、客殿、宝蔵の創建。五体の板本尊造立以降のことである。もし大石寺9世日有の代に全国的に大石寺の信徒が増加して、その信徒の供養によって大石寺9世日有が経済力・財力をつけたというなら、末寺の寺院建立は、京都天奏、客殿、宝蔵の創建。五体の板本尊造立の以前になっていなければならないはずである。しかし実際は、順序がまるで、あべこべになっている。これは極めて大きな大石寺の歴史における矛盾である。

しかも大石寺9世日有の代に大石寺の信者が増えたといっても、大石寺の近辺のことだけのことと考えられる。日蓮正宗大石寺門流の信者もたいして増えず、僧侶も人材不足がつづく大石寺で、大石寺9世日有は、どこからそんな大きな経済力を手に入れていたのだろうか。

少なくとも、大石寺9世日有が手に入れていた経済力とは、日蓮正宗大石寺一門の信者の供養というものではなく、それとは別の、何か特定の、ずばぬけた経済力の源泉を所持していたと見るべきだ。この謎を解くことが、大石寺9世日有の「戒壇の大本尊」偽作を説き明かすカギなのである。

9世日有4(諸記録) 

(能勢順道氏の著書『諸記録』に載っている大石寺9世日有の肖像画)