■検証18・百六箇抄が偽書である証拠・日蓮日興相承の大ウソ12
□日蓮は滅後の導師・戒壇・授戒・ビジョンを弟子たちに何一つ明示しないまま入滅した
日蓮正宗や創価学会の「百六箇抄」「二箇相承」の議論は、「日蓮は絶対に誰かを第二祖として血脈相承をした」という前提になっているが、そもそもこの前提が間違っている。
日蓮は最後の最後まで自分の滅後のビジョンを弟子たちの前ではっきり明示しなかった。
日蓮は「南無妙法蓮華経を唱える」という唱題行で一切衆生皆成仏道を説いたが、しかし佐渡流罪・身延山入山以降は、唱題、本尊、戒壇の三大秘法を説いた。しかし日蓮は、三大秘法の詳細や滅後の大導師について、ついに最後の最後まではっきりと明示しなかったのである。日蓮は、観心本尊抄、報恩抄で本門の本尊とは、釈迦如来仏像、ないしは十界の立体本尊であると説いた。そして観心本尊抄では、自界叛逆難・他国侵逼難の二難が到来した後、「一閻浮提第一の本尊」が立つとした。この時の日蓮の頭の中には、自分の在世中に蒙古が襲来して日本が滅亡し、然る後に日蓮が説き明かした仏法が弘まる、との基本認識があった。
そもそも日蓮は、立正安国論の諫言を聞き入れない鎌倉幕府・日本国は蒙古襲来で滅亡し、その後に日本国中に南無妙法蓮華経が弘まると考えていた。つまり日蓮は自分の在世中に南無妙法蓮華経の仏法が日本一国に広宣流布すると考えていた。しかし1281年(弘安4年)の、いわゆる「弘安の役」で、日蓮の日本滅亡の予言、日本滅亡の後に日蓮の題目が一気に広宣流布するという予言は完全に外れた。しかし二度の蒙古襲来でも日本は滅亡せず、南無妙法蓮華経も弘まらなかった。予言が外れた日蓮は、身延山の草庵で重い病に伏せる。気落ちした日蓮は、病が次第に重くなっていく。しかしこれでは日蓮に入門した弟子・信者が納得しない。
「祖師の滅後はどうしたらいいのか」「朝廷公認の僧になるにはどこで授戒したらいいのか」
日蓮は重い病の中、自分の滅後のビジョンを弟子の前に示す必要性に迫られた。
しかし自分の在世中に南無妙法蓮華経の仏法が日本一国に広宣流布すると考えていた日蓮が、重い病の中、自分の滅後のビジョンを弟子の前に示せるはずがない。
日蓮は弘安五年(1282)4月になって、ようやく「三大秘法抄」を執筆して釈迦如来本尊・王仏冥合の時の戒壇建立は示した。しかし、授戒の戒壇についてはついに示さなかった。日蓮は戒壇について、「三大秘法抄」で王仏冥合の暁の戒壇建立は説いたものの、僧侶授戒の戒壇院はどうするのか、最後の最後まで説き明かさなかった。このことが日蓮入滅後、日蓮門下が分裂していく大きな原因になる。
六老僧でも日昭は比叡山延暦寺戒壇説を採り、他の門流は日蓮門下の独自戒壇建立説を唱えたりもするが、日像の京都開教とそれに伴う日蓮門下と比叡山延暦寺の対立が起こり、比叡山延暦寺の戒壇での授戒は消え去り、「天文法華の乱」で、日蓮門下の独自戒壇建立も消えてしまう。
(京都妙顕寺)
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