アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ

正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」。創価学会や顕正会は勿論の事、その本家本元の日蓮正宗自体も「目くそ鼻くそを笑う」的なものだ。創価学会、SGIや冨士大石寺顕正会、正信会、その他の分派団体……これらの親元・生みの親・育ての親・本家本元は、日蓮正宗です。 伝統仏教の仮面をかぶり、国際人権規約(条約)違反の人権侵害を行い、信教の自由から逸脱した専横活動を行い、一般国民の信教の自由を踏みにじる弾圧を行うカルト宗教を規制する新立法・新条約制定を目指します。日蓮正宗、創価学会、顕正会をカルト宗教に指定して司法監視せよ。反日蓮正宗系活動はカルト宗教の専横・独裁・専政・弾圧に抵抗する現代の自由民権運動である。 (「日蓮七百遠忌大法会」終了後、記念撮影する大石寺67世阿部日顕ら日蓮正宗首脳僧侶と池田大作ら創価学会首脳・昭和56(1981)年10月17日付け聖教新聞)

大石寺史10・日鎮・日院・要法寺日辰・武田兵乱

□正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗」です
http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/29372252.html
□反日蓮正宗・反創価学会・反顕正会・反正信会路線の「アンチ日蓮正宗」
http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_695541.html
「仏教宗学研究会」とは「アンチ日蓮正宗」管理人が設立した会の名称。この会の中で、「日蓮正宗系」と富士門流執着軍団の批判・糾弾は正式名「アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会・正信会」略称名「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。「仏教宗学研究会のブログ」は「日蓮正宗系」以外の仏教・宗教・各宗派の調査・研究部門を直轄管轄。富士門流執着軍団批判は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄だが、「日蓮正宗系」以外の富士門流寺院の調査・研究は「仏教宗学研究会のブログ」の管轄。「仏教宗学研究会」への誹謗中傷に対する反撃・糾弾は「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」(アンチ日蓮正宗)が管轄。「アンチ日蓮正宗・オフィシャルブログ」から、カルト宗教対策、カルト宗教取締特別立法、カルト宗教拡散防止条約制定の活動部分を独立させたものが「国際カルト宗教対策委員会(Icat-Cult)」
□「アンチ日蓮正宗」「Icat-Cult」「仏教宗学研究会」は表裏一体の同体」
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□「国際カルト宗教対策委員会・公式ブログ」
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□「アンチ日蓮正宗」の5番目の批判ターゲットに「富士門流執着軍団」を指定
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□「アンチ日蓮正宗」の基本方針・基本政策・メインテーマ
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□日蓮正宗とは伝統仏教の仮面をかぶるカルト・宗教詐欺集団である
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□創価学会は伝統仏教の仮面をかぶるカルト・謀略政治団体である
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□冨士大石寺顕正会とは伝統仏教の仮面を被るカルト・暴力集団である
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□妙観講とは伝統仏教の仮面をかぶるカルト・謀略集団である
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□日蓮正宗正信会とは日蓮正宗の仮面をかぶる創価学会の分派である
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□「富士門流執着軍団」とは伝統仏教の仮面を被る謀略軍団である
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□日蓮正宗・創価学会・顕正会・正信会は同じ穴の狢・同罪である
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□日蓮正宗管長・代表役員・大石寺法主への離檀宣告書の書式
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□日蓮正宗からの離檀1(離檀届)
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□創価学会からの脱会1(脱会届)
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□冨士大石寺顕正会からの脱会1(脱会届)
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□正信会からの脱会1(離檀届)
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□日蓮正宗批判・創価学会批判・顕正会批判は他のカルト宗教批判と構造が異なる
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□「アンチ日蓮正宗」は永世中立・非同盟・不偏不党・自主独立機関
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□アンチ日蓮正宗・コミュ・ブログ・管理人
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□「アンチ日蓮正宗」は単なる数合わせの政治的野合・連合体をめざさない
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□「『アンチ日蓮正宗』の内容は正確で、問題の本質をとらえている」と日蓮正宗の現役信者・元信者が認めている
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血脈相承は9世日有の偽作だ(13)~「定」と「二箇相承」の矛盾を歴史上最初に言及した京都要法寺十三祖貫首・広蔵院日辰

■検証13・日興が身延山久遠寺第二祖貫首に登座した史実は存在しない6

 

日蓮が定めた本弟子六人(六老僧)の「定」と矛盾する「二箇相承」「血脈相承」

 

「二箇相承」「唯授一人血脈相承」は、1282(弘安5)108日、日蓮が入滅の直前に制定した本弟子六人(六老僧)の「定」と明らかに矛盾するものである。日興が執筆した 「宗祖御遷化記録」によると、「定」は六人面々に帯するべしとして、日持、日頂、日向、日興、日朗、日昭と入門・法臘の浅い者からつらね、この本弟子六人は序列なく「不次第」であると、日蓮が定めているのである。この「宗祖御遷化記録」は、日興真筆が現存しており、富士門流八本山のひとつ・西山本門寺に格蔵されている。日蓮正宗大石寺が発刊している「御書全集」にも、日興が執筆した 「宗祖御遷化記録」を載せており、しかもその中には「定」も掲載されている。

「弘安五年壬午九月十八日 武州池上に入御 地頭衛門大夫宗仲  同十月八日 本弟子六人を定め置かる 此の状六人面々に帯すべし云々日興一筆なり  定

一弟子六人の事 不次第

一、 蓮華阿闍梨 日持

一、 伊与公 日頂

一、 佐土公 日向

一、 白蓮阿闍梨 日興

一、 大国阿闍梨 日朗

一、 弁阿闍梨 日昭

右六人は本弟子なり、仍って向後の為に定むる所、件の如し。弘安五年十月八日 」

御遷化記録(御書全集)1


御遷化記録(御書全集)2


御遷化記録(御書全集)3
 

(日蓮正宗大石寺発刊「御書全集」p18631864)

日蓮遷化記録(日蓮宗学全書)1


日蓮遷化記録(日蓮宗学全書)2


日蓮遷化記録(日蓮宗学全書)3


 

(「日蓮宗宗学全書」2巻に収録されている日興筆「日蓮遷化記録」)

もし日興が日蓮から血脈付法の法主・身延山久遠寺第二祖であると指名されたならば、その付法は日蓮一期弘法付嘱書によれば、すでに1282(弘安5)9月に行われているのであり、「定」の序列を「不次第」とする必要はなく最上位に置かねばならないはずである。にもかかわらず、それがなされていないという根本的な矛盾がある。しかしこの「定」がニセ物ということはありえない。日興真筆の「御遷化記録」は今に伝わり、現在、西山本門寺に格蔵されている。1282(弘安5)9月に日蓮が本当に日興に血脈相承していたならば、翌108日に本弟子六人の序列を「不次第」と定めることなど、有り得ない。さらに一旦、本弟子六人の序列を「不次第」と定めておきながら、日蓮入滅の直前に日興を再び身延山久遠寺の別当に任命するなど、絶対に有り得ないことだ。こんなに矛盾した話しはない。こうしたことからも、「二箇相承」「唯授一人血脈相承」が後世の偽作である偽書であると断定できる。

 

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戒壇大本尊は9世日有の偽作だ(238)~「戒壇大本尊」が火災・戦災で焼亡して再造されてきたとする「富士門流執着軍団」の説は誤り

■検証238・「富士門流執着軍団」の大石寺「戒壇大本尊」焼失・再造説は誤りである9

 

□「戒壇大本尊」が火災・戦災で焼亡して再造されてきたとする「富士門流執着軍団」の説は誤り

 

ところでかつて510年間も大石寺「戒壇の大本尊」なる板本尊が格蔵されていた土蔵造りの大石寺宝蔵には、他にも紫宸殿本尊、死活本尊、紫宸殿本尊の模刻板本尊、諫暁八幡抄などの日蓮遺文など、数多くの大石寺重宝が格蔵されていて、これらの重宝は何ら無傷のまま保存されている。それにも関わらず、「戒壇の大本尊」なる板本尊だけが焼亡したとする「富士門流執着軍団」の説には、最初から無理があり、仮説としても成立していないと言うべきである。「それなら戦災で焼亡しただろう」と言うのであろうが、大石寺の長い歴史の中で、「戦災」と呼べるものは、1569(永禄12)6月、大石寺13世日院の代に起こった、甲斐国・信濃国の戦国大名・武田信玄軍の侵攻による被害ぐらいであろう。日蓮正宗大石寺側の史料・文献には、次のように記載されている。

「永録十二年己巳二月七日重須の堂を焼き、同六月当山堂閣を焼き僧衆を責む、剰へ永録十三年信玄出陣し当山の境内を以て陣屋となして・根方興国寺城之を責む」

「当山の堂舎を焼くのみに非ず・其時の呵責言語に絶するなり・具に記文の如し、今日因云く大石原既に陣屋となる故に信玄興国寺城を責めんと欲して・先づ永録十二年当山及び在家を焼き払い・而して陣屋を造るのみ」

(『富士宗学要集』1p197「有師物語聴聞抄佳跡上」)

物語抄・武田兵乱
 

文中に「当山堂閣を焼き」「当山の堂舎を焼く」と書いてあるので、足利義教や織田信長が行った比叡山延暦寺焼き打ちを連想してしまいがちだが、武田信玄軍が本当に大石寺の堂宇に火を放ったのかどうかについては、まことに疑わしいものがある。というのは、日本の歴史で、対立する二つ以上の軍勢の戦争で、結果として、堂宇が焼け落ちるなどの戦災を被った寺院は、いくつもある(東大寺・本能寺等)が、将軍や大名が仏教寺院と戦争をして寺院の堂宇に火を放ったなどという事例は、皆無だからである。

1433(永享5)年、1435(永享7)年、二度にわたって室町幕府軍と比叡山延暦寺衆の間で激しい戦争が勃発。幕府軍は圧倒的な軍事力を背景に延暦寺の領地各地に火を放ち、荘園は次々と制圧。各地で幕府軍は延暦寺「軍」を打ち破っていったのだが、延暦寺の僧兵たちは、ここで最後の切り札を出した。延暦寺の総本堂である根本中堂に立て籠もったのである。大名たちはこれ以上の軍事攻撃に反対し、延暦寺も和議を申請した。足利義教は1435(永享7)年、義教は罪を反省して降伏した者には所領を安堵するというお触れを出した。これを信じて何人かの僧侶が出頭したところ、義教は直ちに逮捕して悲田院で斬首した。これに憤激した僧侶たちは自ら根本中堂に火を放って集団焼身自殺をとげたのである。このときに、伝教大師最澄以来、およそ六百年になんなんとする伝統がある比叡山延暦寺根本中堂が焼き払われて灰塵になってしまったのである。この事件は正確には焼き討ちではなく、僧侶たちの集団焼身自殺である。

 

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戒壇大本尊は9世日有の偽作だ(237)~高岡市土蔵造りのまち資料館に掲示されていた明治の高岡大火と焼け残った土蔵造り

■検証237・「富士門流執着軍団」の大石寺「戒壇大本尊」焼失・再造説は誤りである8

 

□高岡市土蔵造りのまち資料館に掲示されていた明治の高岡大火と焼け残った土蔵造り

 

高岡市指定文化財・旧室崎家住宅が、高岡市土蔵造りのまち資料館として、一般公開されている。室崎家は現当主で九代目となる歴史のある家で、明治初期にこの場所に移ってきたもので、それ以前は、道路を挟んで向かい側の家に住んでいた。室崎家は、昭和20(1945)まで、綿糸や綿織物の卸業を手広く営んでいた、高岡でも屈指の商家。現在は石油商を営んでいる。室崎氏の転居にあたって、高岡市がこの土蔵造りの民家を資料館として、一般に公開している。ここも土蔵造りの調査で、入りました。土蔵造りというのは、家屋の外側の話しであって、家の中は、至って普通の数寄屋造りの民家になっている。この家の土蔵は別にある。つまり民家も土蔵も両方が土蔵造りになっているというわけである。土蔵造りのひとつのポイントとして、土蔵がある家は、裕福な家、財産家、資産家と言われる家が多かったこと。大切な家宝、財産を厳重に保管するために土蔵を造ったわけである。土蔵そのものは、昭和3040年代のころまで、北陸地方の各地にあったようである。私も子どもの頃、土蔵造りの蔵をよく見かけた記憶がある。江戸時代から明治、大正のころを生きた人たちは、「火災が多い」という常識の中で生きていた。そういう中、資産家たちは、自分たちの大事な財産が火災によって灰になってしまっては困るので、江戸時代から明治時代にかけて、土蔵を造っていった。そこで、土蔵の中には、財産が隠されているということで、第二次世界大戦後の混乱期に「土蔵破り」と言われる盗賊が出没した事件が多発していたという。

しかし戦後の高度経済成長の中で、次第に民家の新築が進み、立て替えが進んでいく中で、古い土蔵造りは姿を消していった。高岡市の場合も同様で、土蔵造りの家屋の立て替えが進み、土蔵造りの家が少なくなっていき、残ったところが重要伝統的建造物群保存地区になったのだという。

この資料館には、女性の係員が一人いて、私の質問に、わりと親切に回答してくれました。

「土蔵造りに関する本か資料はありませんか」と係員に質問すると

「いやー、そういうのは、ないですねえ」との答え。

資料館の中の明治の高岡大火や土蔵造りの説明が書いてある写真パネルを、「写真に撮ってもいいですか」と尋ねると、「あー、どーぞどーぞ」との答え。

そこで私が写真撮影していると、この女性係員が、奥の方から高岡市教育委員会が発行した高岡の土蔵造りに関する資料を一冊もってきて、手渡してくれました。「なんだ、ちゃんと資料があるじゃないですか」と言うと、「あまり人に見せていない資料」なのだとか。

 

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戒壇大本尊は9世日有の偽作だ(236)~土蔵造りの大石寺宝蔵、「富士門流執着軍団」の戒壇本尊炎上説検証で訪れた高岡土蔵造り

■検証236・「富士門流執着軍団」の大石寺「戒壇大本尊」焼失・再造説は誤りである7

 

□土蔵造りの大石寺宝蔵、「富士門流執着軍団」の戒壇本尊炎上説検証で訪れた高岡土蔵造り

 

土蔵造りの大石寺宝蔵、「富士門流執着軍団」の戒壇本尊炎上説の検証のため、土蔵造り・蔵造りの謎を追って、富山県高岡市の土蔵造りの家が建ち並ぶ「山町脇」を訪ねている。高岡市の山町脇とは、2000124日に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された地域で、土蔵造りが軒を連ねる町並みになっている。山町脇の重要伝統的建造物保存地区に指定されているのは、山町十ヶ町(御馬出町、通町、守山町、木舟町、小馬出町、一番町、二番町、三番町、源平町、坂下町)である。ここはもともとは、1609(慶長14)に加賀藩二代藩主・前田利長が、高岡に隠居城と城下町を建造したときに、北陸道に面する商人の町として開かれた町。町の案内板には、山町脇について、こう書かれている。

「明治に入り1900(明治33)に高岡の大火がおき、市街地の約6割が焼失しましたが、その前年(1899)に施行された「富山県建築制限規則」により、山町脇などの繁華街については、防火構造の建造物とすることが義務づけられていたため、当時の防火建築物である土蔵造りの建造物が建築されました。」

土蔵造り5
 

(富山県高岡市「山町脇」の土蔵造りの町並みの案内板)

この保存地区内には、土蔵造りや真壁造りの町家、前面を洋風に仕上げた町家、レンガ造りの建築など、明治中期から大正、昭和初期に建築された伝統的な建造物が残されている。この山町脇に土蔵造りの町家が造られていったのは、高岡の市街地の約6割を焼き尽くした1900(明治33)627日の高岡の大火の後のこと。高岡の大火の前年に施行された「建物制限規則(富山県令第51)」には、繁華街での建物の新築の際は、防火構造のものとすることが義務づけられていたため、山町脇の復興には、当時の防火建築物である土蔵造りが建てられていった。明治時代の大火の後、耐火構造の土蔵造りが建造されていったというのは、川越市のケースとよく似ています。高岡市土蔵造り資料館の係員の話しでは、高岡の大火でも土蔵造りの家は焼けなかったことが、大火の後、土蔵造りの家が次々と建築される大きなきっかけになったという。川越の大火、高岡の大火で土蔵造りの家は燃えない、ということがここに立証されている。さて山町脇の土蔵造りの家でも、内部が一般公開されている家がある。そのひとつが菅野家住宅で、国の重要文化財に指定されている家。実際にまだ人が住んでいるということで、家の中の一部が公開されている。

菅野家とは、代々、伝右衛門を襲名し、江戸時代末期から明治時代に回船の隆盛で、富山県と北海道の通商で巨万の富を築いた高岡有数の商家。明治22(1889)に高岡銀行を設立。明治36(1903)に高岡電灯を創立。さらに高岡紡績を起こしている。さらに政界にも進出して、高岡政財界の中心的な存在だったという。

 

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戒壇大本尊は9世日有の偽作だ(235)~土蔵造りの大石寺宝蔵、「富士門流執着軍団」の戒壇本尊炎上説検証で訪れた川越の蔵造り

■検証235・「富士門流執着軍団」の大石寺「戒壇大本尊」焼失・再造説は誤りである6

 

□土蔵造りの大石寺宝蔵、「富士門流執着軍団」の戒壇本尊炎上説検証で訪れた川越の蔵造り

 

土蔵造りの大石寺宝蔵、「富士門流執着軍団」の大石寺「戒壇本尊・炎上」説の検証・研究・調査で、埼玉県川越市と富山県高岡市で、蔵造り・土蔵造りの調査を行いました。これはどういう関連かというと、「戒壇の大本尊」が数百年の間、土蔵造り(蔵造り)の大石寺宝蔵に格蔵されてきたこと。そしてこれに関連して、「富士門流執着軍団」がブログ等で

「私は、同本尊(戒壇の大本尊のこと)は何度となく再造されてきたのだろうと考える」「再造という場合は、いったん無くなってしまったものを再び造るということだ。たとえば、火事で燃えた、盗難に遭った、古くなったなど、理由はともかくとして作り直すことを意味する」

等々と、「戒壇の大本尊」が火事で燃えた、盗難に遭った、古くなったなどの理由によって「戒壇の大本尊」が、何度となく再造されてきたという説を述べていたこと。これにより、土蔵造り・蔵造りの調査が必要だと思い立ったわけである。こういう研究の中で、特に確かめておきたかったのは、土蔵造り・蔵造りの耐火性。盗難を防止する構造。とりわけ火災を防ぐ防火構造について。その埼玉県川越市と富山県高岡市で行った蔵造り・土蔵造りの調査のうち、まずは川越市のほうから。

川越の蔵造りの街、いわゆる川越の旧市街地には、川越市蔵造り資料館、山崎美術館、大沢家住宅等々といった蔵造りの建物がぎっしりと建ち並んでいる。道路は舗装され整備されていますが、蔵造りの町並みは昔のままです。川越市には、いくつかの歴史スポットがありますが、そのひとつが、蔵造りの商家が立ち並ぶ旧市街地。ここに来ると、明治・大正の昔にタイムスリップしたような気持ちになる。川越の蔵造りの町並みは、国の伝統的建物群保存地区に指定されている。

ただしこの蔵造りの町並みができたのは、明治になってからのことである。1893(明治26)の川越の大火で、町の三分の一以上が焼失してしまうほどの大火災の参事になったのでしたが、この大火の中で、蔵造りの建物だけが焼失せずに残った。これにより、その後、蔵造りの建物がどんどん建てられて、蔵造りの町並みになったのだという。

蔵造りは耐火構造として優れているばかりか、盗難から守る防犯構造としても堅牢なもので、今でも三十数軒が残っている。この中で、大沢家住宅が最も古い建物だと言われている。川越の蔵造りの大半が、明治の大火後に建てられたものですが、大沢家住宅は、1792(寛政4)に建てられたもの。川越の蔵造りの中では、唯一、国の重要文化財に指定されている。重要文化財とは言っても、大沢家住宅には、今でも人が住んでいる中、さまざまな展示品を公開している。

さて川越一番街には、黒い蔵造りの建物・川越市蔵造り資料館がある。ここには23回行きました。ここは、元々は、タバコの卸売り商人だった小山家の蔵を利用した資料館。

店蔵の奥に二階建てのタバコ蔵、文庫蔵など五つの蔵が建ち並んでいて内部の見学もできる。

 

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